国際通り

沖縄の観光スポットである那覇市の国際通りは、街の景色がどんどん変わる場所としても有名。でもその中には、今もなお昔の風景が残る建物もあります。そんな景色を探してみるのも、国際通りの歴史がわかります。

「国際通り」命名の由来となったアーニー・パイル国際劇場

沖縄の玄関口である那覇空港から、車で約20分。全長1.6㎞にわたって様々な店舗が軒を連ねているのが、那覇市のメインストリートである国際通りです。戦争によって焼け野原となった那覇の街の中で、最も早く復興・発展を遂げたこの場所は、『奇跡の1マイル』とよばれていました。

この通りが「奇跡の1マイル」から「国際通り」と呼ばれるようになったのは、通りにオープンした映画館「アーニー・パイル国際劇場」が発端でした。

アーニー・パイル国際劇場とは?

「アーニー・パイル国際劇場」とは、戦後、那覇市内に建てられた民間の映画館の名称です。「アーニー・パイル」は、第二次世界大戦中に従軍記者として活躍した、実在するアメリカのジャーナリストの名前です。ピューリッツァ賞も受賞したアーニー・パイルですが、従軍先の沖縄県伊江村にて、日本兵に狙撃され戦死します。

そんなアーニー・パイルの名前は、戦後、GHQの占領下におかれていた日本のある施設に名付けられます。それが、東京宝塚劇場です。東京宝塚劇場は、第二次世界大戦後、GHQによって接収されると、日本に駐留する兵士たちの慰問を目的としたGHQ軍専用の劇場となります。この時、殉職したアーニー・パイルに因んで「アーニー・パイル劇場」(Ernie Pyle Theatre)と改称されました。

東京宝塚劇場の改称は、アメリカ軍の強い要望によって行われましたが、同じ占領下にあった沖縄のアーニー・パイル国際劇場は、あくまでも民間人が自発的にアメリカ軍へ配慮したことによって命名されたといわれています。

那覇市中心部がアメリカ軍に接収されたことによって生まれた国際通り

戦前の国際通り周辺は、那覇市の中心部ではなく、人家が少ない畑や湿地帯が広がる場所でした。当時の中心地といえば、現在の那覇市西・久米・辻周辺のことを指しており、戦後、アメリカ軍の占領下におかれた沖縄では、真っ先に中心部が強制接収されます。

行き場を失った民間人は、復興の拠点となる土地を求めて中心部から壺屋地区で開かれていた市周辺に移動。圧倒的に不足していた日用品の製造を行う窯業業者たちが入市を認められると、すぐ近くの牧志地区に集まっていた瓦職人たちも入市出来るようになります。復興に不可欠となる生活用品の製造業者が市で店を開くことによって、市周辺には自然と人々が集まり、さらにその隙間を縫うようにして多くの闇市も広がっていきました。

こうしてできた大きな市場街の中にできたのが、アーニー・パイル国際劇場。人々の娯楽の場となったこの映画館の名前にちなんで、いつしか人々の間で「国際通り」という名前が定着するようになりました。

アーニー・パイル国際劇場の今は?

経済の中心となる市場街に誕生したアーニー・パイル国際劇場の周辺には、多くの映画館が建てられました。それに伴い本格的な劇場に改築されたアーニー・パイル国際劇場の隣には、同じオーナーによって映画館「平和館」が建てられ、巨大な大衆娯楽センターとなります。

本土復帰前の1970年になるとアーニー・パイル国際劇場と平和館は取り壊され、新たに「那覇ショッピングセンター」がオープン。那覇最大の繁華街の中心地として、地元の人々が集まる人気スポットとなりました。

そんなアーニー・パイル国際劇場周辺のにぎわいも、大型ショッピングセンターが次々と郊外に移っていくことによって、徐々に変化がみられるようになります。地元客は、郊外の大型ショッピングセンターや裏通りにある小さな店舗外へと移るとともに、徐々に国際通りから流れが移っていきます。

さらに、国際通りの知名度が全国的に高まるにつれて、国際通りを訪れる観光客の数が激増。これによって観光客をターゲットにした店舗やホテルなどの建築ラッシュが起こり、国際通りは地元の人々の生活の中心としての役割を終えると同時に、旧アーニー・パイル国際劇場もその幕を閉じます。

現在、アーニー・パイル国際劇場の跡地には、沖縄の伝統文化や芸能を体験することが出来る「てんぶす那覇」が建てられています。

アーニー・パイル国際劇場跡地(現・てんぶす那覇)

住所:沖縄県那覇市牧志3丁目2-10

地元の人々に愛された百貨店・沖縄三越

国際通りで永らく地元の人々に親しまれた場所といえば、平成26年9月21日に閉店した百貨店「沖縄三越」があります。

三越の重役が沖縄出身だったことが沖縄三越誕生に関係していた

沖縄の人々の間で長い間親しまれたデパート「沖縄三越」は、1957年6月4日に株式会社大越が「大越百貨店」をオープンさせたのが始まりです。沖縄で百貨店事業を行うにあたって創業者が協力を頼んだのが、沖縄県出身の三越重役だったといいます。

このような背景があった大越百貨店と三越は、創業当時から緩やかな提携関係にあり、さらに1970年に「沖縄三越」に商号変更し、正式な資本・業務提携が結ばれてからは、沖縄を代表する百貨店へと成長していきます。

いろいろな分野に事業を拡大して失敗

残念ながら、地元の有力企業にありがちな結末をたどってしまうことになる沖縄三越。もともと地元企業である大城組の創業者がオーナーであった大越百貨店は、沖縄三越となった後も、大城組とともにグループ企業として様々な分野に事業を拡大していきます。

那覇空港のターミナルビルに出店したり、首里観光の拠点としてホテルを開業するなど、観光客向けの店舗や事業を次々に立ち上げ、一時は売上高が約119億円に上ることもあった沖縄三越ですが、この時の莫大な投資がもとで、結果として総額約80億円の負債を抱え、経営が行き詰ってしまいます。

県産デパートを再建するための一大プロジェクト

多額の負債を抱え経営困難となった沖縄三越ですが、多くの県民に愛され沖縄を代表するデパートにまで発展してきたこともあり、再建を願う多くの声が寄せられます。こうした声に応える形で支援に乗り出してきたのが、沖縄県内の経済界と三越でした。様々な支援による負債整理と長期再建計画によって、2代目沖縄三越として再スタートします。

その成果もあり、徐々に経営先宴を軌道に乗せ始めた沖縄三越は、少しずつかつての姿を取り戻していき、リーマン・ショック前の2008年には、再建以降最高売上高となる約91億円を記録するまでになります。

2度目の業績悪化で閉店

リーマン・ショック以降の世界的な経済の悪化に伴い、再び業績が悪化してしまった沖縄三越。百貨店業界の市場環境の急激な変化なども起こり、2度目の業績悪化となります。さらに、建物の老朽化や三越の商号使用許諾契約の終了など様々な悪条件が積み重なり、ついに、平成26(2014)年9月21日、惜しまれつつも閉店しました。

沖縄三越の今は?

57年の歴史に幕が下ろされることが発表された直後、地元では大変な動揺が広がりました。そして、閉店までの期間は、多くの県民が「もう一度三越に行こう!」と集まってきます。閉店セールが始まってからの沖縄三越は、かつて沖縄で一、二を争うデパートとしての面影を思い出させるにぎわいを見せ、営業最終日には、最後にシャッターが締められる瞬間を見届けようと、地元人だけでなく、地元テレビ局や新聞社などの報道関係者も大勢詰め掛けました。

惜しまれつつも閉店した沖縄三越の本店跡には、よしもと花月などが入る若者向け商業施設「ハピナハ」がオープンします。ところが、このハピナハも、2017年に閉店。現在は、建物だけが国際通りの沖縄三越跡に残されています。

沖縄三越跡地

住所:沖縄県那覇市牧志2丁目2-30

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