沖縄市コザ

本島中部の旧コザ市は、日本で唯一カタカナを使った市名。美里村との合併で沖縄市となったため、コザ市という市名は消滅したものの、独特の文化や風景が残る街は、今も多くの人々を惹きつける魅力にあふれています。

コザ市はどんな街?

カタカナの市名だった旧コザ市は、復帰前も今も米軍基地と深く関わりがある地域です。沖縄本島に住んでいても、コザ周辺は独特のオーラを感じる場所なので、慣れていなければちょっと近寄りがたい独特な雰囲気があります。その背景には、かつてこの地域に多くの米軍施設があったことが関係しています。

キャンプ・コザ

沖縄の風景は、沖縄戦によって上陸したアメリカ軍によって町の形を大きく変えました。コザ地域もその一つであり、かつては米軍本部や野戦病院、物資の集積所など多くの米軍関連施設がこの地域に建設されました。さらに、コザの近くには、極東最大の米軍基地である嘉手納基地が作られました。

そのため、もともとはのどかな農村地帯であったコザ周辺には、米軍相手の店が多く建てられるようになります。こうしたこともあり、いつしかコザには、米軍基地関連の職を求める人が多く集まるようになります。

実はこの時に集まった人々の中には、沖縄本島だけでなく、日本本島からやってきた人も多く含まれていました。そのことを裏付けるように、コザの商業や娯楽サービスで働く人の約8割は、コザ以外の地域から流れ込んできた人々で占められていたといいます。こうして米軍基地関連の仕事を求めて人々が一気に集まったコザは一気に膨れ上がり、店を目当てに訪れる米軍兵士と地元の人々の交流も自然と大きくなっていきました。

コザの象徴「コザ十字路」

米軍関係者が多く集まるようになったコザの街ですが、街の中には、白人たちが集まる白人街と、黒人たちが集まる黒人街に分かれていました。それぞれの通りの分岐点的な場所となっていたのが、コザ十字路。そのため、米軍嘉手納基地の正門近くに位置するコザ十字路は、米軍相手の店やパブが多く立ち並び、今の閑散とした風景からは想像がつかないほど大変なにぎわいを見せていました。

こうしたこともあってのことなのか、当時は、タクシーの運転手に「十字路まで」と行き先を告げると、コザ十字路に向かったという話が残っています。この話からも、当時のコザ十十字路は、コザを象徴する場所だったということがわかります。

Aランチ発祥のお店があったのもコザ市だった

沖縄の食堂やレストランで人気メニューの「Aランチ」。実はこのAランチを考案したお店が、コザ市にありました。

ニューヨークレストラン(現在閉店)

中央パークアベニューにあった老舗レストラン「ニューヨークレストラン」は、今でこそ沖縄料理の定番メニューとまでなっているAランチ発祥のお店でした。

もともとは小さな木造のレストランだったらしい

のどかな農村地帯だったコザの街が沖縄を代表するような街へと変わっていくのと合わせるかのように、ニューヨークレストランも、時代とともに大きく変わっていきました。もともとは30坪に満たない小さな木造の店舗だったニューヨークレストランも、最盛期には、のれん分けした店が県内に17~18店舗もあったといいます。

当時の沖縄の人々の憧れがAランチを生んだ

Aランチといえば、大きなお皿の上に、山盛りのおかずとごはんが盛り付けられたボリューム満点のメニュー。このメニューが考案された背景には、当時の沖縄の人々の憧れが深く関係していたといわれています。

戦後の沖縄はいろいろなものが不足しており、人々は貧しい暮らしを強いられていました。そんな沖縄の人々にとって、レストランで豪華な食事を楽しむアメリカ人の姿は、憧れの存在。「せめて外食をする時ぐらいは、自分たちもアメリカ人のように贅沢な料理を食べたい」という想いが、沖縄の人々の間では強くあり、これがのちの洋食レストランへブームにつながっていきます。

そうはいっても、当時の人々にとって外食はとても貴重な体験。月に何度も訪れることなどは到底無理なことで、庶民の間では、記念日やお祝いなど特別な日に限られる贅沢な体験にすぎませんでした。だからこそ、外食に対する思い入れは人一倍強かったようで、「どうせアメリカ人のようにレストランで食べるのなら、おもいっきり贅沢したいし、お腹いっぱい食べたい」というニーズが生まれます。これにこたえる形で誕生したのが、Aランチだといわれています。

Aランチだけでなく、Bランチ、Cランチが誕生した理由

メニューを見てもわかる通り、ランチという名前がつく人気メニューには、Aランチのほかにも、BランチやCランチが存在します。これも、当時の人々の切実な思いが反映されています。Aランチを食べたくても予算的に無理なお客さんに対して、おかずの数を減らしてその分値段を下げ、憧れのランチが食べられるようにしたのだそうです。

そのため、Aランチが最も豪華で、予算的に最も安いのがCランチ。要するに、一般的に「スペシャルランチ」と呼ばれるものが沖縄のAランチであり、「サービスランチ」と呼ばれるものがCランチだと考えると、なんとなくイメージがつくはずです。

コザに来たら立ち寄りたい場所

魅力あふれるコザの中でも、ぜひ立ち寄ってほしい場所があります。

沖縄ポップカルチャー第一人者の三線が飾られている三線店

コザには、三線演奏者たちが足しげく通う「照屋林助三線店」があります。店の名前にある照屋林助さんとは、沖縄で超有名な三線演奏者であり、喜劇俳優でした。戦後の暗く沈んだコザの街を、音楽と笑いで明るく照らした照屋林助さんは、当時のことを知る県民なら誰もが知る存在です。そんな照屋林助さんが現役時代に愛用していた三線が飾られているのが、照屋林助三線店です。

照屋林助三線店は、1936年にコザの街でオープン。厳選された黒木の原木で製作される三線は、三線独特の美しい音色を奏でるだけでなく、黒木の原木の持つ美しさを引き出した見た目の美しい三線ということでも高く評価されています。現在は、照屋林助さんの息子である照屋林次郎さんが店を引き継ぎ、祖父で創業者の照屋林山さんから受け継いだ三線製作の技を守り続けています。

ちなみに、2005年3月に他界した照屋林助さんの子孫には、息子の「りんけんバンド」のリーダーでもある照屋林賢さん、孫の「ガレッジセール」のゴリさん、姪孫のモデルの知花くららさんがいます。

照屋林助三線店
  • 住所:沖縄市中央3-3-3
  • 営業時間:11:00~19:00
  • 電話:098-937-6158
  • 定休日:火・水曜日

復帰前の風景が今も残るストリート

国道330号線から伸びる一方通行路が、通称パークアベニュー(中央パークアベニュー)です。車一台が通れる車道の両脇には、独特の形をしたアーケードが伸び、その下には広い歩道が設置されています。

復帰前のこの通りは、通称「BC通り」と呼ばれていました。この「BC」とはビジネスセンターの略です。ビジネスセンターは、かつて米軍関係者と地元の人々が健全な商売ができる場所として設置されました。そんなパークアベニューには、今も当時の面影が残る場所がたくさん残っています。

当時は白人街だったパークアベニュー

パークアベニューがBC通りと呼ばれていた頃、コザの街には、白人街と黒人街が存在していました。そのため、米軍関係者といえども、白人と黒人によってはっきりと住み分けがされていました。BC通りは白人街だったので、この通りにある店に黒人が入ると、大変な騒動が起こったという話もあります。

中央パークアベニュー

住所:沖縄市中央4丁目10-25

沖縄音楽を知りたければ絶対に外せない楽器店

沖縄音楽の中心として今も多くの人に愛されているコザには、量・質ともに凄い楽器店があります。それが、普久原(ふくはら)楽器。

創業50年の普久原楽器は、音楽にまつわるものならほとんどが揃っている音楽のスーパー専門店。店内には、ピアノやギターなど定番の楽器がずらりと並べられているだけでなく、エフェクターなどの音楽周辺機器や電子ドラムのような最新楽器、さらに県内では数少ない管楽器なども並べられています。

しかも、沖縄民謡だけでなく、メジャーからインディーズに至るまでさまざまなアーティストのCDがそろえられているので、沖縄音楽に興味のある人であれば、喉から手が出るほどのお宝に出会えるはずです。

ちなみに、店内にはスタジオも完備されており、ここでは自社レーベルのCD製作なども行われています。

普久原楽器
  • 住所:沖縄市胡屋1-3-4
  • 営業時間:11:00~20:00
  • 電話:098-938-9375
  • 定休日:元旦のみ
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